岸川珪花の考えごと

日々の思いや自主研究、好きな本や音楽のことなどなど

イワン・カラマーゾフについて語りたい📚

はじめに

 ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』に登場する、イワン・カラマーゾフという人物について語らせてくださいーー。どんな作品にも、この人物ほど描かれる思考や行動が私の心にクリーンヒットする存在は今のところいません。学生時代に読んで以来、彼は私の「永遠の心の恋人」ともいえる人物です。私がこの本を読んだのは大学一年生の春なのですが、彼は私が当時抱えていた悩みや葛藤とちょうどシンクロするようなキャラクターでした。というわけで、是非是非語りたい。

 今回はイワンがどういう人物で、どんなところが私の心を掴んでいるのかについてまとめてみたいと思います。とはいえ、研究者ではなくただのファンですし、最後にこの本を読んでからだいぶ時間が空くので細部について間違ったことを書くかもしれません。その場合は気づいたら随時訂正します。少々長い文章になりますが、よろしければお付き合いください😊

 

※この記事は以前Privatterで公開した記事を一部修正・加筆したものになります。基本的には同じ内容ですが、今回は目次機能等を試してみたいと思います。

※結構暗く、重く、絶望的な話です。物語上、殺人や自殺といった概念が登場しますし、あまり気分の良くない事件の話も出てきます。ちょっと今はまずいかな、という場合は読まれない方がいいかもしれません。

 

■目次■

 

イワン・カラマーゾフは謎の人?

なぜならイワンが言っていることの意味がよくわからなくても物語は楽しめる

 イワン・フョードロヴィチ・カラマーゾフカラマーゾフ3兄弟の次男で、長男ドミートリーが「情熱」を、三男(にして主人公の)アレクセイが「愛」を体現しているのに対し、「智」を体現している人物とされます。イワンは大学で工学を学んだ理系のインテリです。

 しかし、なんですが…この人は作中でいきなり独自の無神論を展開したりと、かなり文系的で形而上の話題に強い人物として描かれています。しかも聖書のエピソードを事実としてあり得るか?と言うようなスタンスで研究するのではなく、それらが表している信仰上の意味を理解し、説かれている理想と現実での人々の心の拠り所の違いを分析し、その上で自分の不信の苦しみを叙事詩にして表現したりもできます。なんなんだろうこの理系。

 技師キリーロフといい、ドストエフスキーの描く理系の人々は文系的な話題にものすごく強いんですよね。宗教の話ってその形而上の意味を理解するには、文系でも最上級の力を必要とする気がします。ドストエフスキー作品で描かれる無神論者の思想には、ドストエフスキー本人の神の不信への苦しみが表されているとされています。この人たちはある意味で作家本人の分身なんですね。

 イワンって何言ってんのかよくわかんねえよなあ。なんか小難しいこと言ってるみたいだけど、思想的な意味で語ってる部分は「父殺し」の物語の進行とあんまり関わらないし、わかんなくてもストーリーは読めるしなあ…という気分になってしまっても、正直、『カラマーゾフの兄弟』の物語は読めてしまいますよね。私も一番好きな登場人物とはいえ、言ってることがよくわからない部分がまだたくさんあります。少なくとも、「全ては許されている」って、そのままの意味で受け取られるとどうもイワン的には困るらしいってことがすごく重要なのはわかるんですが…。

 

イワンの語る思想は全て「反語形」である

 イワンが自分自身の本当の考えを明かさず相手への挑戦的な問いかけで話を進める上に、弟のアリョーシャ君が言葉が少なくても相手の魂の核心部分と共鳴できる超人であるがために、イワンが本心で考えていることは、少なくとも物語の途中までは、非常にわかりづらいですよね。イワンが作中で述べるのは(というか述べている中で私がキャッチできたのは)、

「人間の魂の不死など存在しないのだから、魂の不死の教えに基づく理想も信念も掟も全て意味を持たないことになる。結果、善も存在しないことになり、倫理的に人間を縛るものなど何もなく、何をしても全ては許されているという答えが導き出せる」

「まだ何の罪も犯していない嬰児・幼児・児童の虐待と非業の死に対し神は沈黙しているが、彼らの犠牲は本当に必要なのか、死後に恩寵が与えられればそのような非道が許されて良いのか。また、神の御心にかなう者は犯人を赦すのが本当に正しいのか」

「人々が求めるのは愛と赦しではなく、裁きと服従であることが歴史的に証明されているではないか(「大審問官」)」

といった思想です。

 

不死の魂など存在しないから、全ては許されている

 物語の序盤、カラマーゾフ家で起きている財産相続の問題について、イワンはなぜかアリョーシャのいる修道院で長老たちを立会人にして話し合いたいと主張します。そして修道院に関係者が集められた席で、イワンはこの考えを口にします。

 最初読んだ時は「ああこういう考えをする冷静でニヒルな人物なんだなあ」と思ったんですが、しかし。

 直後に、ゾシマ長老に「あなたは自分の魂の不死も信じていないけれど、自分が今言ったことも実は信じてはいませんね」ということ指摘され、イワンは動揺して「そうかもしれないが、まるっきり冗談で言っていたわけではない」と奇妙な告白をします。

 ここでわかるのは、イワンは自分の本心を反語で隠しているということです。

 本当は理想も信念も掟も(すなわち善を生み出すものが)、人間の中に存在していて欲しいのに、どうもあるとはとても思えない。だが本心では存在していて欲しい、それでなければ自分はこの世で生きていく価値を見出せないから。それでは、なぜ存在していないと自分は考えているかを論理的に組み立てて教えるから、誰か僕にも納得できる形でそれを反証してみてくれませんか?

 つまりイワンは誰かが自分の意見に反論して自分を納得させる答えを出してくれるのを待っているわけで、本当に「全てが許されている」なんて信じてはいないのです。というか、倫理的なことが全て無視され許されているなら、そんな世ではもう生きていたくないとさえ思っている。

 イワンはゾシマ長老に、あなたの中には解決されない悲しみがある、と指摘されます。イワンの解決されない悲しみ、それはこの世に絶望しか見出せない自分自身の思考だと思います。そこから解放されたいのに、自分の力では抜け出すことができない。

 では、イワンを絶望させるものとは何でしょうか。それは次で述べるような理不尽で非情な現実です。おそらくそういった新聞記事を読む度に、お前たちのような醜い罪人に不死の魂など与えられていてたまるか!という気持ちを新たにするのでしょうね…。

 

死後に恩寵が与えられようが、祝福されようが、死んでいった子供たちの苦しみは決して贖われない

 中盤(かな?)、アリョーシャは料理屋でイワンと食事をし、兄が本心では何を考えているのか聞く機会を得ます。ここでアリョーシャはこの物語の中で有名な叙事詩、「大審問官」の話を聞くことになるわけですが、その直前でイワンが話す話もかなり興味深いです。

 イワンはアリョーシャに突然、俺は嬰児・幼児・児童の虐待事件の新聞記事のコレクターなんだ、ということを伝えます。

 ここの部分だけだと「えっなんだこの人そういう話で興奮するタイプの異常者だったのか…?」と思わせますが、さにあらず。彼は罪もないこういった子供たちが犠牲になって無惨に死んでいっている現実にひどく悲しみ、こうした事実を自分が神が信じられないと考える理由を補強する材料として集めているのです。

 苦しみの中で死にゆく子供達を、神は救わない。その祈りも届かない。死後に恩寵が与えられようが、祝福されようが、そんなことに意味はない。彼らの苦しみの復讐が果たされていないのに、赦しは尊いものとして犯人は許されるなんてあり得るのか?

 なんか変化球で入ってくるからわかりづらいけど、全てのことに冷淡そうに見えるイワン、実は意外とものすごく心優しい人間です…!

 イワンは子供が犠牲になったある残虐な事件をアリョーシャに聞かせ、お前はこの犯人をどうすべきだと思う?と問いかけます。彼は神の敬虔な信者である弟が、思わず「銃殺にすべきです!」と答えたことにひどく喜びます…。

 イワンはアリョーシャをとても尊敬しています。なぜなら自分が超えられなかった不信の壁の向こう側にいる人物だから。そのアリョーシャに自分の考えに同意してもらえることが、彼には何より嬉しいわけです。しかし、それにしてもこれは随分とサディスティックな喜びの得方ですよね。

 

せっかく与えられた赦しの教えより、人々は審判の日を待ち望む

 カラマーゾフの物語中で有名なイワン作の叙事詩、「大審問官」の内容です。

 イワンはこの中で、イエスが与えた赦しの教えは高尚すぎて、人間はそれを受け取るのに値しない、ということを述べています。それよりも人間が望むのは規則による支配と隷属、そこからもたらされる秩序、そして和解ではなく復讐であると。

 いやはや、どこまでも人間が嫌いな人ですね…笑 でもまあ、そうだよな、とも思います。

 イエス磔刑と罪の赦しに意味を見出すか、それとも審判の日の到来に意味を見出すかで、キリスト教の信じ方のスタンスは大きく変わってくる、という考えに私も同意します。前者は人の罪を許すために、後者は人の罪を裁くために信仰するのではないか。確かに、人間は許しより復讐を望んでいる場合が多いかもしれませんよね。自分の罪の赦しだけは望んでるかもしれませんが…苦笑

 この考えについても、彼はアリョーシャに感想を求めます。アリョーシャは、叙事詩の結末としてイワンが考えているのと同じように、再臨したイエスが老審問官にしたように、兄の唇にキスします。

 これでイワンは信仰の人アリョーシャが俺の考えを肯定してくれた!と有頂天になりますが、そうじゃありませんよね。アリョーシャは自分の兄の苦しみに深く同情しただけです。

 兄さん、こんなに苦しんでたんだ…こんな絶望的な考えにとり憑かれていたら行き着く先は自殺しかないじゃないか…!

 アリョーシャ君は他人の心と簡単にシンクロできる人物だからチョクでわかるんだろうけど、イワンが考えていることって何だかとってもわかりづらいですよね。

 

アリョーシャが大好きなイワン、だけど彼のことは…

 イワンは冷静で落ち着き払って安定感があるようで、内心は常に自分の絶望的な考えに苦しめられている、なかなか不安定な人物です。彼は自分では希望の「光」を作り出せない人であり、だからこそ、「光の化身」ともいうべき弟のアリョーシャのことをとても愛し、尊敬しています(愛しすぎて時々憎たらしくもなるようですが)。

 イワンは俺の気持ちが明るくなるのはお前のことを考えている時だけだよ、とアリョーシャに伝えます。彼にとっては弟だけがこの世に残された唯一の希望の光であるわけです。

 しかし…そんな「絶望の人」であるイワンから希望の光を見出してしまった人物がいます。

 それはカラマーゾフ家に下男として仕えている、父フョードルに認知されていない私生児・スメルジャコフです。このことが両者にとって悲劇を生みます…。

 

 スメルジャコフとイワン

イワンは彼の弟かもしれないのに…

 スメルジャコフは父フョードルから認知されていないだけで、本当はカラマーゾフ家の「次男」かもしれない人物です(次男、で合ってますよね?💦)。この人はおそらくこの物語中で最も深い闇を抱えた人物かもしれませんね。

 人物紹介の段階で、彼の生来の残忍性と独創的な知性が強く印象に残ります。また、彼は心の中に強い感情を抱えていることをこちらに感じさせながらも、意味深長で断片的な仄めかしでしか自分の思考を語らないため、何を考え望んでいるかがイワンとは違う意味で非常に読み取りづらい人物だと思います。

 イワンが考えていることだけでも理解が難しいのに、そのイワンでさえスメルジャコフが自分に執拗に仄めかしてくる「何か」が読み取れなくて苦悩する、モスクワ行き前夜の場面は、読んでいるこちらの頭がぐわんぐわんしてきます。

 イワンはスメルジャコフが、「神が光あれと言って世界を作ったのに、太陽や月、星々を作ったのは4日目だなんて、1日目は何で光ってたんですかね?」と育ての親グレゴーリーを嘲った(そしてものすごいビンタを食らった)エピソードを聞き、「こいつ結構見所あるヤツだな!」と関心を持って自分から接触します。しかしそのうちなんかこいつ俺と話合わないな…と思い始め、徐々に自分に馴れ馴れしくなり始めたスメルジャコフを不快に感じ始めます。自分から接触したのに酷いヤツですね…笑

(ところでイワンって、怜悧なインテリのくせに不快に感じた時の解決方法がなかなかに暴力的ですよね。マクシーモフを馬車から突き飛ばしたり、酔っ払いの歌が癇に障ってすれ違いざまにタックルをかましたり、スメルジャコフに対しても、おいてめえいいかげんにしねえとぶっ飛ばすぞ!というスタンスで接します。冷静に論理を語っている時とのギャップがすさまじいですが、私はイワンが内面に隠すそういう凶暴性も結構好きだったりします笑)

 イワンは、スメルジャコフが自分としている哲学的な話題の途中等で急に怒りっぽくなって黙ったりするのが理解できず鬱陶しくなり、またものすごい自尊心を見え隠れさせるようになってきたのが憎たらしくなったようですが、スメルジャコフからしたらそれって致し方ないことだよな、と思います。

 スメルジャコフは生まれた時から不当な扱いを受けて続けていますよね。

 彼は父(と思われるフョードル)から認知されないからカラマーゾフ姓を名乗れず、本当は弟かもしれないイワンに対して「若旦那様」として接するしかありません。また、知性で言えば長男のドミートリーを遥かにしのぐのに、下男として扱われているのでイワンのように大学で学問を修めることもできませんでした。本当は彼だって全然違う道が開けたかもしれないのに、出自ゆえに常に正当に評価されていない。それは内心に怒りも抱えるというものですよね。

 スメルジャコフがイワンに馴れ馴れしくなった理由(というか単に親愛の情を示そうとしただけだったのでは…)、それは本当は弟かもしれない彼から一目置かれ、二人だけの「秘密」を共有できる立場になったと感じたのがとても嬉しかったのではないでしょうか。

 その「秘密」というのが…これまた凶々しい…。

 

「父親の殺害」の共犯関係として生まれるはずだった擬似「兄弟の絆」

 スメルジャコフがイワンに執拗に仄めかしてくる「何か」、それは僕のためにもあなたのためにもなるのだから、どうか父フョードル殺害のGOサインをください、ということです。怖っ!

 不思議なのは、スメルジャコフはフョードルの殺害にどうしてもイワンの許可を必要としていることです。事前に全ての手筈は整い(そこが怖い)、別にイワンが何も知らずにフョードル宅から出ていくだけでも万事実行できるはずなのに、なぜか彼は自分の犯行の計画をイワンと共有したがります。

 これは共謀して父を殺害した、という秘密を共有することで、自分とイワンの間に特別な絆を作りたかったのではないかと思います。つまり、父フョードルのせいで兄弟とは認められなかったけれど、フョードルの流す血によって今度こそ結びつけられる、擬似的な「兄弟の絆」というわけです(言ってて怖っ)。こんな形でしか絆、作れなかったのかよ…。

父フョードルも結構哀れな人かも…?

 ところで、スメルジャコフは自分の不当な待遇の元凶であるフョードルを殺したいほど憎んでいたわけですが、フョードルの方はそれほど嫌っていなかった(むしろ信用していたし割と愛していた)というのが哀れです。

 この本を読む前、「父殺し」の物語と聞いて、その父というのは強権的で強欲で抑圧的な、子供たちにとって恐るべき「壁」となるような人物だと思っていたんですが、物語中のフョードルは随分軽いというか、道化的というか、どちらかというと「父親らしくなれなかった人物」という感じですよね。私の知人には「フョードルのダメっぷりがむしろだんだん可愛くなってきた、死んでしまうと思うと物語を読み進めるのがツライ」と言っている人もいました…笑

 

「光」だと思ったのは「光」じゃなかった

 スメルジャコフがフョードル殺害を「やっていいことなんだ」と考えるようになったのは、イワンの「全ては許されている」という言葉を文字通りに信じたからです。スメルジャコフはイワンによって自分の人生に光明がもたらされたと感じ、イワンも自分を支持してくれるものと信じて、それを実行に移します。

 しかし、イワンはそれを支持してはくれませんでした。彼は「全ては許されている」とは思っていないのですから。

 事件後、初めのうちはスメルジャコフはイワンが全てを知りながらしらばっくれて罪を自分一人に被せようとしているのだと考え、怒りに燃えます。しかし最後の対面で、イワンが実は本当に事件の真相を知らなかったことを知り、呆然とします。

 スメルジャコフは実の兄弟とようやく共有できる秘密の絆を持つことができたと思ったのに、それは幻想でしかなかった。イワンと自分は何も共有などできていなかったし、イワンは自分のことを理解してくれていなかった。自分が信じてきた「希望」を教えてくれた人は、それを信じてなどいなかった。

 スメルジャコフはイワンに、あなたが僕を馬鹿だと思っていたのは、あなたが傲慢だからです、と伝えます。

 イワンという人物は、自分が慕うカテリーナとの関係では随分マゾヒスティックなのに、自分を慕う人たちに対してはものすごくサディスティックですよね。リーザからもらったラブレターを破り捨てるシーンもなかなか印象的です(リーザは大事なアリョーシャの元婚約者なので、その恋心を受け入れてしまうと倫理的にイマイチ、という考えもあるのでしょうが、解決法がなかなか加虐的です)。

 イワンはスメルジャコフの態度を許せない馴れ馴れしさだと考えて激怒していますが、スメルジャコフの側からすれば、それは尊敬する「弟」に親愛を示しているのであり、イワンがアリョーシャに抱く感情と本質的にはあまり違いがなかったのではないでしょうか。

 アリョーシャはイワンに深い愛情と同情を返してくれますが、スメルジャコフはイワンから「俺はお前と同じじゃねえよ!」という憎悪しか受け取ることができません。実際、二人が考えていたことはかなり食い違っていたわけですが…。

 スメルジャコフの自殺は、あなたが罪を償おうとするなんてナンセンスだし、あなたの考える正義なんて実現させませんよ、という最後の復讐の意味もあったのかもしれません。

 

 良心の呵責に苦しむ自分をも嫌悪する「可哀想な人」

 結局、イワンはドミートリーがかけられた嫌疑を晴らすため、スメルジャコフから聞いた事件の真相を法廷で語りに行き、裁判の場で発狂します。

 イワンの内心では矛盾する幾つもの考えがぐるぐると渦巻いていますよね。

 無実の罪だから兄ドミートリーは救われなくてはならない、だが恋敵だから本当はいなくなって欲しいし、正直ドミートリーのことは好きじゃない。でもそんなことは正しくない、だが何に対して正しくないのか?自分は正義も神も信じていないのに何に対して正しい必要があるのか?

 スメルジャコフとの最後の対面を果たした、法廷での証言前夜、イワンの自意識は「悪魔」という幻覚の形をとって現れ、彼をちくちくと苛みます。君って、偽善者で小心者ですよねぇ、本当はお兄さんがいなくなれば都合がいいって思ってるのに悪党にもなれない、でも信念を貫いて善人にもなれない。本当に中途半端ですね、良心の呵責って良心的な人にしかないものですが、君はニヒルで冷徹を気取ってたのに良心は取り外せないんですねぇ。

 私はこの、イワンが悪魔と対峙する場面が大好きです。結局イワンは本質的には良心的な人間だったのに、そんな己が好きになれなかったんですね。イワンは他人の欺瞞が大嫌いですが、自分自身のことだって同様に、好きではないといえます。

ところであなたひょっとして『悪霊』のステパン先生ですか?

 この「悪魔」なのですが、よその家で食客になっているみたいなとか、結構見栄えのする人物だとか、親戚の家に預けた、節目節目にグリーティングカードのやりとりをする程度の疎遠な息子がいる感じがするだとか、いろいろイメージの詳細が書かれています。そしてそれらのイメージはどうも『悪霊』に登場した美学者ステパン・ヴェルホヴェンスキー先生に重なるところが多い気がします。

 ステパン先生は『悪霊』で、息子を中心とした若い世代に陥れられ、嘲られ、悲運を辿りましたが、ここへきて悪魔に転生して、別のロシアの若者を腹いせにいたぶりに来たとでも…いうのでしょうか…?笑

 

おわりに ~次は『悪霊』のキリーロフについて語りたい~

 どうだったでしょうか。本来の専門は仏文学なので、これまでロシア文学のイワンについて語る機会はなかなか得られず、ここで彼への思いを一気に解放できて個人的にはすごく嬉しいです。露文が専攻できる大学ってほぼないですもんね。

 次はできるなら、『悪霊』のアレクセイ・キリーロフについて語ってみたいです。キリーロフもドストエフスキー作品ではイワンの次くらいに好きなんですが、キリーロフはイワンよりも危険な人物と言えますよね。彼はざっくり言うと、「僕は自殺を決行し、人間が神から自由であることを世に証明する最初の人柱になる」という思想を持っていて、それを本当に実行するというキャラクターです。彼がそれを決行することで、後の世では人間自体が神になるのだそうで。物語の背景には実際に起きた殺人事件がモチーフとしてあるし、次も明るい話になり得ませんね!はっはっは。

 

 今回はこのあたりで。長くなりましたが、お付き合いありがとうございました🙇‍♀️

 それではまた!

先月は春薔薇をたくさん見て来ました🌹